ショックだった富樫さんの訃報

2024年9月5日、北中米W杯のアジア最終予選の初戦で日本は中国に7-0と圧勝した。これでW杯予選は中国に3連勝、さらにE-1選手権を含めると98年3月のダイナスティーカップ以来14試合負けなしだ。

いまでは日本がW杯や五輪に出るのは当り前になっている。しかし1980年代はどちらも「夢」という時代があった。95年10月、森孝慈(故人)監督率いる日本が初めてW杯のアジア最終予選に進出した。この時は中東と東アジアでセパレートした予選方式だったおかげもある。しかし森ジャパンは韓国にホームで1-2、アウェーでも手も足も出ず0-1で敗れた。救いはホームの国立競技場で木村和司さんが決めた伝説のFKによるゴールだった。

2年後の87年10月26日、ソウル五輪予選で日本は決勝戦に進出した。韓国はホストカントリーのため予選には出場しないので、20年ぶりに巡ってきた五輪出場のチャンスだった。アウェーの広州での第1戦は原博実さんのゴールで1-0と先勝した。ワンチャンスを生かしての、日本らしい勝利だった。

意外だったのは、当時の中国の主力は北京以北の長身な遼寧などの選手たち。そんな彼らがボールを持つと、南部の広州のファンは大ブーイング。そして小柄な広州の選手がボールを持つと大声援。アジアでありながら、バルセロナとマドリッドの民族対立を広州で経験したことだった。

試合に関して言えば、第2戦のホームでの試合は先制のチャンスをシュートミスで逃すと、その後は中国の攻勢に2点を奪われて逆転された。力の差をまざまざと見せつけられる80年代の日本と中国の対戦だった。そんな両国の力関係が逆転したのは、やはり93年のJリーグ創設であり、近年の選手の海外移籍による急成長と経験値の高さであることは疑う余地がないだろう。

さて、これまで癌と告知された瞬間に、「頭の中が真っ白になった」という癌患者の話を新聞やネットで何度か目にしたことが何度かあった。癌=不死の病というイメージがあったからではないだろうか。しかし、それは近年だいぶ変わっている。

僕自身は肺炎で入院した際の2022年6月に、すでに癌と言われていたし、2022年7月15日のカウンセリングの時はステージⅢの前期と告げられても「あ、そうなんだ」と思ったくらいで、あまり重病という実感はなかった。

そして「右肺の全摘出手術です。2週間くらいの入院になります」と告げられても、「そんな大手術(と思った)なのに、こんな短期間の入院で済むの?」と意外に思いつつ、イエスともノーとも即答できなかった。

逡巡を見て取ったのか、カメラマンの次兄が「サッカーやりたいとか、カタールに行きたいとか考えるな。まずは生きることを考えろ」と叱咤された。普段も仕事で行動を共にすることが多かっただけに、心の内を見透かされた思いがした。

僕自身も息子と娘がいる。たぶん2人が大きな病気になったら「どんなことになってもいいから生きていて欲しい」と願うし、そう言葉にして叱咤激励するだろう。それが親の情というものではないだろうか。

しかし、なぜか自分自身のことなのに実感がわかない。どこか「他人事」というか、冷めた自分がいる。なぜかというと、64歳になり「何が起きてもおかしくない」と、漠然とだが思っていたからかもしれない。

それがドクターの言うままに手術を受け入れるのではなく、「セカンドオピニオンを聞いてみたい」という返答につながったのだろう。というのも、やはり右肺の全摘出手術と、それに伴うだろう生活の変化は正直ショックだった。そして長兄と次兄が同席して気付かないことを質問してくれたことも、今となっては自分の意見を言いやすかったのかもしれない。

もし自分一人だったら、セカンドオピニオンという発想があったとしても、それを言葉にできたかどうか自信はない。自分自身の身体のことなのだから、疑問があったら質問しないと病状はわからないし、今後の治療方針もしっかり確認しておくべきだといまでは今では思っている。

ドクターとフェイス・トゥ・フェイスでは、ドクターに責任はないものの患者は一方的に聞き役に回ってしまうことが多い。患者にすれば病気に対して無知なことも多々あるため(予備知識がないため)仕方ないと思うが、そこで「間」を置くためにも深刻な病気の際のカウンセリングには家族や親族、友人が同席した方がいいと思う。

余談だが、次の病院のドクターに初めて会った際に、「癌治療をしなかったら、あと何年生きられますか」と質問した。治療を受けに来たのに失礼と思ったが、「癌でも治療をしない」という選択肢もあるのではないかと思ったからだった。

ドクターの答は「3年くらいですね」というものだった。当時の僕は64歳、3年後だと67歳ということになる。寿命として、長くはないが短くもないというのが正直な感想だった。

健康体ならば、年齢にかかわらず何歳まで生きようと意識することはあまりないのではないだろうか。そういう僕も、漠然とだが50歳代には60歳、いわゆる還暦までは生きたいと思っていたことがあった。

その原体験となったのが、サッカーダイジェストの編集長だった50歳代に経験したある出来事にあった。

大手出版社の学研が創刊した『ストライカー』の編集長である中村よしゆきさんが、2007年の東南アジア4か国のアジアカップ最中に60歳で亡くなられた。そして老舗『サッカーマガジン』の編集長の千野圭一さんも2012年10月31日に59歳で亡くなられた。2人とも病魔に冒されたということだった。

それ以前にも2006年、ドイツW杯を控えた2月には日本代表のアメリカ遠征の試合直前に、86年メキシコW杯や90年イタリアW杯を一緒に取材した富樫さんがアフリカ選手権の取材でエジプトのカイロに滞在中、決勝戦を前に急死した。当時、まだ55歳の若さだった。

サッカー専門誌の編集長のライバルとして(といっても一番年下だったので失礼かもしれないが)、暗黒の80年代以降の日本サッカーを取材して、どう盛り上げるか苦労してきた同業者として、中村さんや千野さん、そして草サッカー仲間でもあった富樫さんの訃報はやはりショックだった。

特に意識したわけではないが、「せめて60歳以上は生きて、日本サッカーの成長を見届けたい」というのが漠然としたものではあるが、一つの目標になっていた。

幸運にも還暦は兄弟や知人・友人に祝ってもらった。そして64歳になり癌となった。治療は外科的手術を断って、抗癌剤と放射線治療を選択した。と同時に、前述したように治療をしないという選択肢も頭をよぎった。

癌は楽な病気でもある。ステージⅣでも日常生活に不便はないし、さすがに禁煙はしているがお酒も食事も制限はない。仕事も普通にできているし海外にも取材に行ける。周囲から気遣ってもらうこともあるが、かえって恐縮してしまうほどだ。

そんな病気に対し治療をしない選択肢も考えた。天寿を全うしようというイメージだ。ただ、やはり気になったのは子供たちのことだった。3年後にポックリ死ぬのは理想的である。しかし、その前に治療のため入院したりしたら子供たちに迷惑をかけてしまうのではないか。寝たきりになるとか、そのまま意識不明になるとは思わないが、どんな治療を受けるのか想定できない――その思いから、「できる限り治療を受けなければいけない」と思って次の治療に向かうという選択をしたのだった。

写真は86年メキシコW杯取材当時の富樫洋一さん。西ドイツとの決戦前にはアルゼンチンが練習を公開。当時は負けた国のメデァイは帰国していたため、取材陣も少なかった